各市町村役場・行政機関を通じ、日本・侍士の会が地域に密着し,人と人を結び世に出ない話題を集めローカルな特色のある取材を行い、その地の特産物である海の物山の物川の物という食材や地場の焼酎等を取り上げていきます。その際、各地域にある侍士の会加入店も特派員になり、情報収集し、またその地方の活性または、宣伝する場(チャンス)を提供したいと考えました。ですから、このページの情報は、焼酎に関することなら、何でもオッケー!公序良俗に反しない限り。各特約店の方々からの焼酎情報や一般の方からの話題もお楽しみいただければ幸いです。
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八丈回顧紀行(丹宗庄右衛門を追って)
 東京から約290キロも離れた八丈島に芋焼酎製造法を伝えたのは、島流しがきっかけの薩摩の商人、丹宗庄右衛門だった。庄右衛門が伝えた焼酎は、島内の酒造元が150年経過した今でも大事に伝承され脈々と続いていた。
 ◎まず丹宗庄右衛門を語るには、数々の史料や資料をたどる事が重要だった。一体、庄右衛門はなぜ八丈島に遠島になったのか。私にとっても、このレポートを見て初めて知った方も、ここから江戸時代の当時の世界に入り込んでもらわねばならない。

時は嘉永六年(1853年)
・・松平薩摩守領分薩州出水郡阿久根の庄右衛門(丹宗庄右衛門)着島年令42歳が藩の密貿易策の仕事により江戸にて捕らえられ16年の流刑になる。

 (葛西重雄・吉田寛三 著、増補四計 八丈島流人銘々伝では上記のようにあるが、阿久根市立図書館、郷土資料館の資料との年令流刑年数2、4年の誤差がある。)
 八丈島はあまりにも遠い未開の孤島であり、食べることすら困難な地であった。三食もままならない八丈では塩害による不作酒造りが禁止され、困り果てている島民のために庄右衛門(しょうえもん)は薩摩から酒造りの道具薩摩芋を取寄せ、焼酎を造り教え、島民に大いに喜ばれた。現在の八丈焼酎の起元丹宗(たんそう)ということから、赦免後、丹宗神社に奉り「島酒の碑」まで建ててある。と、数々の著書にはそう説明してある。
 私は、平成5年の頃、故・菅間誠之助先生の著書を読み、初めて丹宗庄右衛門の話を知った。同県人であり焼酎に没頭しながらまったく無知な事が恥かしくなり、また同時にそれ以上に丹宗庄右衛門という人物像が妙に何かを訴えているようでもっと多くを知りたくなり当時の時代背景、民間・商人の立場を知る過去をたどることに強い興味を持った。

★丹宗庄右衛門のことを知ってるのだろうか?
 手始めに焼酎製造元はこのことを知っているのだろうか?八丈島では、丹宗に関わる銘柄もあるが、ご本家、鹿児島では話も無い上に銘柄さえない。聞いてみても、著書を見た人や農大醸造の勉強をしたものなら当然知っているだろうが・・知らない人もいた。それが、悲しいではありませんか。
丹宗を知る前に、焼酎を鹿児島にて顕彰する気持ちから隣町の末吉・木場酒造にて平成7年芋焼酎「丹宗」製造した。業界が、大きく揺れ崩れだした頃である。

★平成8年3月7日、阿久根を訪問する
 焼酎造り原点を求め、初心というものを追求するため、島流しになりながらも薩摩伝来の芋焼酎を八丈に伝えた丹宗を訪ねた。その頃から、時代時代の焼酎意味
に思いがはせていくことになる。阿久根には、木場酒造(当時専務)木場修一、庄右衛門の子孫・丹宗暉雄さんと墓参。その足で、阿久根市立図書館郷土資料館に行く。館長・下脇末義さんの説明で阿久根の歴史、海運のことを初めて聞く。残念なことに、丹宗に関しては私たちが調べた以上は何も出てこなかった。しかし、このことは何を意味しているか?ということを、初めて納得いく常識に気づいた。丹宗庄右衛門が如何に薩摩藩の政策に従っていようが、ご法度を無視していることに間違いなく、身内にしてみれば大罪人という事で、何も語らず何も伝えずとその全てにフタをしていた。それで、多くの丹宗に関する資料が残されていないのである。ただ、これだけは酌量が必要だと思う。商人である以前に薩摩藩という大権力の中で丹宗その他が堂々と勝手に密貿易が出来ただろうか。そんな恐ろしいことが出来るはずもなく、薩摩藩の財政を膨らませる重要な名誉な一環だったとすれば強気な商売ではあるが、反面、立場上働かされ否応もない選択だったのかも知れないと、予測する。江戸では、幕吏に捕らえられた際、五日間の猶予が与えられ「逃げても良いぞ」とばかりの処遇に、自分が逃走することにより郷里の妻子縁者に災いが及ぶことを恐れそのまま18年の流刑に服した。という阿久根資料があるが、そのことからも自分の立場を画策しながら深く悩んだことがうかがえる。
 その日、阿久根の海沿いにある道の駅を過ぎたあたりから見えた沖小島付近の陰辺りが、密貿易の約束場かと想わせるかのように海も荒れ白波がたっていたのが、これから丹宗庄右衛門をたどる時間へ吸い込まれることの前兆みたいで、一人、胸躍り血が騒いだのを記憶している。この日、南日本新聞社・記者と南日本放送ラジオも同行している。鹿児島で丹宗庄右衛門をしっかり紹介することは、初めてのことだろうと思う。その後、特集も組まれ少しでも一般の方々に、丹宗阿久根八丈島焼酎の関係を紹介できたのではないかと考える。

★平成9年1月26日  念願の八丈島へ飛ぶ

鹿児島を離れ、途中、初めての富士山を間近にし、上空から見た国土の広さに感動じみた物を受けながらいかに八丈が遠いかを実感した。

 焼酎業界が焼酎税率値上げ焼酎粕廃棄問題で先行き不安へ揺れている最中、八丈島で何かをつかんで帰るべく強い思いで八丈に飛んだのである。同行者は木場修一氏(木場酒造専務)と木場氏の実父と私と南日本放送テレビと南日本放送ラジオ・両スタッフと万全の体制で、焼酎『丹宗』を探求するために八丈島へ渡った。テレビは先行き不安の中でのメーカーとしての木場酒造をとらえ、ラジオは焼酎見聞録という番組で、焼酎「丹宗」情報が発端となり丹宗庄右衛門を阿久根から取材し八丈まで焼酎との接点を求めて追いかけてきた。四日間の滞在であった。鹿児島空港発、羽田乗り換え。小さな航空機の不安より、八丈島の丹宗に近づける期待感の方が強かった。八丈までの空の道は、延々と青より青い重い色の海が続く。その中に大型船舶が小さく見え、小型船舶はノミのように止まって感じた。八丈までがいかに離れた島であるか、その昔を想えば絶句し又ため息がでた。何も無かった海に島が現れる。だんだん接近すると荒々しく見える島の先端から吸い込まれるように降りていく。寒い。風が強い。1〜3月八丈島風が強く寒いと聞いた。昔は、多くの人がこの海で遭難したことだろう。
 
(荒れ狂う海岸)  (恐ろしいほどの大きなうねり)
(八丈富士) (残された昔の湊)


 空港を一歩出て驚いた。
末吉という地名とそれに関係したものがあった。私達は、財部町と末吉町から来たのである。それと、案内板に言葉が書いてあるが、鹿児島言葉(旧言語)と、非常に似ている事に驚いた。島に着いた途端に驚きの連続だ、これなら丹宗にまつわる物語がたくさん出てくるのではと益々期待が膨らんだ。八丈についてから、最初に迎えてくれたのは八丈富士という山だった。冷たい風に何もかも飛ばされて綺麗に目に写った。丹宗にとって初めて島を目前にした時、どのような心境になったのだろう。当時は、風を選び長い日数を要し、島々を停泊しながら入港したと聞く。その間、体力の無い者や老人等が生きて流罪の役に就けなかったとの話も聞き、それだけでも大変な島流しの実情だったらしい。着いても、食えず生きるもむずかしい。やっと、接岸。江戸から流された者が、嘆くほど遠いという島に、丹宗はそれ以上に遠い薩摩から江戸に来て、江戸の商人に騙され横取りされた挙句、捕らえられ更に遠島に科せられた。
 島津の詰め腹とは云え、生きて屍の境地、諦めに近い失望に違いない。八丈富士も火山。遠く離れた薩摩にも、燃えるような火山桜島がある。薩摩の象徴は桜島と灰と芋である。八丈島はある部分薩摩に似ている八丈の歴史は流人が創ったものではない縄文以前より人が住み固有の文化を築いてきた。「八丈島イコール流人の島」という本土人の考え方やイメージを島の人は嫌っている。前に述べたように、島流しは島の歴史からみればほんの短い期間であり歴史上最近の出来事なのだ。当初は政治犯のような国にとって重要な罪で遠島になった武士であり文化人ばかりであった。島津にも深く関わりのある宇喜多秀家も最たる流人である。そのような、流人が八丈島に最上級の文化を残した。現在もそれを八丈の良いイメージに考え、江戸後期あたりの民間犯罪者を多数送りだした時期の八丈をあまりよく考えていない。また、この島流しにより現地で妻帯を持つことは出来ず、水汲み女と生活はすれ赦免になれば島を離れることになる。
 
昔の島民の生活は、この様な高床式住居であった。しかし流人は、古代の生活よりもっと過酷な生活であったらしい。

 庄右衛門ら流人は八丈島に上陸するには必ず新島に停泊し数ヶ月滞在する。八丈島での焼酎製造伝授の前に庄右衛門は新島でも製造法を教えている。伊豆八丈付近での焼酎文化発祥もそうゆう経路の流れではないかと想像される。庄右衛門が八丈に上陸し生活を始める。酒が飲みたい。当時、島では塩害や気象条件による米不足で穀物を使った酒造りが禁止されていた。貴重な穀物を利用することで飢饉に繋がることを恐れたのである。そこで、穀物(米・麦・他等)を使わなければ酒を造れるか、役所に尋ね承諾を得て、前にも挙げたように薩摩より蒸留器具や薩摩芋を取寄せ、度数の強い焼酎を造り役所や八丈の人に振舞った。それが、定着し現在に至る。
右へつづきます…。
 
 



…左からの続きです。

 空港に八丈焼酎製造元の方たちも来ておられ、初めて薩摩と八丈が焼酎の文化で繋がった瞬間のように思え嬉しかった。後ほど、150年の丹宗焼酎伝授以来の薩摩・八丈島との時代を超越した交流の時間が持たれることになる。
 
(鹿児島と八丈との初交流)   (会場にて、句による記帳)

 八丈島に来た私達は、鹿児島を離れる前に焼酎と芋が非常に結びつきの深いことから鹿児島県曽於郡大隈にある大隈試場(大隈農業試験場)よりバイオで育てられた無菌の薩摩芋を数種類選別し、庄右衛門以来の焼酎と薩摩芋で橋渡し交流が出来ればと期待し持ち込んだ。
 
 八丈島に着き、全ての中心である
八丈島町役場に向かい奥山日出男(当時)町長に会う。焼酎の碑建造時の詳細を調べて頂いた。八丈の文化、焼酎、経済、環境、空港を含む大まかな情報を伺った。歴史をひもとく前に、教育委員会も訪ね郷土史について、丹宗に至るまた関わる事柄を調査し、図書も見せて頂いた。当時、役場は山下奉也・産業観光課課長、間仁田貢教育長が対応していただきました。そこで、八丈史を知るうえで私達にとって大変重要な人物を知ることになる。正しく、その人自身が八丈史の字引であった。
 
(奥山町長) (八丈町役場正面)

 増補四訂「八丈島流人銘々伝」の著者、吉田寛三・葛西重雄の一人、葛西重雄先生にお会い出来たことです。現在まで八丈絡みの多くの著書は八丈史や先生方の訳されたものを参考にされたという事です。
 
(葛西重雄先生に聞く) (増補四訂
「八丈島流人銘々伝」

 増補四訂「八丈島流人銘々伝」の著者、吉田寛三・葛西重雄の一人、葛西重雄先生にお会いできたことだ。現在まで八丈絡みの多くの著書は八丈史や先生方の訳されたものを参考にされているらしい。先生方が説かれた以上の新しい八丈説がないからだ。しかしながら、丹宗庄右衛門に関する資料・証言については私達にとって少しでも新しい事実またはまつわる物語を知りたかったのである。このことは、あとで詳しく取り上げようと思う

★学校で焼酎の歴史教育?
 教育委員会の紹介で三根小学校を訪ねることができた。日本で初めて小学校をたちあげたのが八丈島であると聞いた。八丈島は、東京都である。離島という感覚と矛盾する所が、文化面や教育面からも感じとられた。三根小学校の校長先生のご好意により、「八丈島と島酒」という特別授業を開いて頂いた。突然の訪問であったはずなのに、その事に私達の方が驚き恐縮した。その授業で教鞭をとられた先生とクリクリとかわいい目をした子供たちが、突然飛び込んで来た物々しい団体の前で、島酒という課題で楽しく明るい活発な授業が始まり、感動と感謝の参観日でした。その様子は、番組で使われた。

八丈島の子供たちは、全員元気なかわいい生徒さんでした。「先生、ありがとうございました。」大変貴重な、時間だった

★八丈島農業協同組合・JA八丈島を訪ねた。
 (菊地勝男・代表理事組合長)

 八丈内の薩摩芋を含む作物・作柄状況を聞いた。環境風土が全てに適さず、最近では観葉植物中心に取り組まれていると説明をされた。観葉植物の葉だけを販売する物もある。明日葉という植物も有名である。島では、畑以外に道端でも見かける。健康飲料水や
薬用に使われるほか、地元では酢の物、和え物、漬物、刺身のけん、ラーメンの上にものっていた。万能な食材のようであった。八丈島では、普通である。島の芋畑を見たが、話のように作するには、大変苦労があるだろうとはっきりと素人にも判るほどの土だった。小石に少し土があるという感じで農業には本当に向かないと思えた。
 (土壌)  (芋)

酒造元がその芋畑を見せながら、土地柄が悪く儲からない芋生産から、収入の良い観葉植物の栽培に転換しだし、芋不足になり島酒が麦焼酎に転化してきたと説明。
※ただ、唯一芋焼酎に思いをもって造っている蔵もあり、また八丈の芋を復活させて焼酎を作る蔵も現れていると聞く。 
農協にて生産物について説明をうかがう。丹宗以外にも、鹿児島県人の功労者がいて農協敷地内に碑があると教えていただいた
  (下の写真)
大迫宇吉
大正2年畜産技術官として来島し、畜産発展に貢献
  

 
※第一編はここまで
阿久根から八丈にたどり着き、序々に時代の扉が開かれようとしている。第2編は、もっと迫りたい!私の記憶がどっと蘇る!

第2編へ続く…。(ここをクリック!)
特派員:しょつやの前畑(店主:前畑さん)
【鹿児島県曽於郡財部町】


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五分の目編集局
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五分の目編集局長より
予告
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初耳