日本・侍士の会が地域に密着し,人と人を結び世に出ない話題を集めローカルな特色のある取材を行い、その地の特産物である海の物山の物川の物という食材や地場の焼酎などを取り上げていきます。その際、各地域にある侍士の会加入店も特派員になり、情報収集し、またその地方の活性または、宣伝する場(チャンス)を提供したいと考えます。公序良俗に関しない限り焼酎に関する情報をお待ちしております。各特約店の方々からの焼酎情報や一般の方々からの話題もお楽しみいただければ幸いです。
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八丈回顧紀行(丹宗庄右衛門を追って)
 東京から約290キロも離れた八丈島に芋焼酎製造法を伝えたのは、島流しがきっかけの薩摩の商人、丹宗庄右衛門だった。庄右衛門が伝えた焼酎は、島内の酒造元が150年経過した今でも大事に伝承され脈々と続いていた。
第2編
着。その夜…地産地消の原点
 到着した一夜目は、八丈島の製造元の方々に我々は温かく迎えられ、手土産の鹿児島の焼酎と八丈島の各地区の代表銘柄を酌み交わし交流と親睦を深めた。準備された目の前の肴(さかな)は見たことも口にしたことも無い品だった。島独特の料理と、それに似合う雰囲気の館にての酒宴だった。初めは遠慮がちだったが、飲むほどに打ち解け、お互い環境条件の違いが有りながらも現状や将来を真剣に語りあった。一人ひとり、人間味のある方ばかりで焼酎にそれが味として出ていると感じた。しかし、一万未満人口に製造元が6社もあれば、人気度によっては経営に影響するくらいの売上の差が出てくるのではないだろうか。その疑問をぶつけると、「島の各地区分散してがあり、蔵のある地区では地区民がその蔵の焼酎を必ず飲むことが常識のように昔から続いている。」と、いう返事がかえってきた。また、小仕込みでそれ以上は仕込まず、大抵完売する。石数も二桁の所で無理をしない。そして、少々の残を古酒にするため、甕(かめ)に入れ長期保存する。PRするほど大量に無く、島内で消費される位しか製造していない。たまに、情報誌に載り途轍もない価格が出た物もあったが、残りなく更に眠りにつかせた不出の古酒もある。
 鹿児島では焼酎を飲む場合、普通一般的にお湯割りが常識であるが、最近はブームの中で様々な飲み方が試されている。私達が八丈島を訪問し焼酎を飲む場合、想像の中で島は東京であり麦焼酎の商圏なので酒造元であれ生焼酎かロックまたは水割りであろうと考えていた。ところが、全員お湯割り、それも驚くことに麦焼酎をお湯割りで飲んだ。「お湯割りですね。」と、嬉しさ半分、驚き半分で尋ねると「お湯割りの法が焼酎の味や風味が良くわかる。この方法は悪いと言われる部分も出てくるが、いい部分も引き出され焼酎の一番美味しい飲み方ですよ。」と返ってきた。私の隣に座られたのは、白髪交じりの少し芸術家風の難しそうな蔵元の方、
磯崎酒造の磯崎正幸社長。地元では、一徹な方で硬い信念を持たれており、近寄り難い人物だと後で聞いた。しかし、この方が一番私と気が合い、また通じ会うところがあった。重い語り口の中に八丈焼酎製造業者の意気込みや永い間の人に語れない苦労などが詰まったように感じた。ただ、飲むほどにそれを忘れるかの如く膝を交え何もかも吐き出すように語りあった。
 周りの席には、
坂下酒造の槇野徳光さん(八丈商工会青年部長)、一番八丈なまりがあり、初めは不機嫌そうに感じたが話しをするとそれは八丈味であったと反省した。言葉のアクセントや喋り方が鹿児島に近く、ぎこちなさも東京を感じさせない。私達に似ている。
 樫立酒造の笹本庄司さんは、里の蔵を継ぐため東京の有名ブランド社を辞め、八丈に帰ってきたばかりの好青年だった。
 八丈島酒造の奥山清満さん、おとなしい優しい人柄。後ほど紹介するが、全ての蔵が見るに値する。鹿児島以外から遠く鹿児島の蔵へ商品集めを伴う訪問者が多くなっているが、東京の足元にすばらしいところがあることを見逃してはならない。
 八丈興発株式会社の工場長奥山靖さん、魚釣りの大好きな工場長。交流会を大いに和ませた立役者の一人。
 八丈島の焼酎とは違うが、
宮原酒造の宮原淳さんともう一度飲んでみたい。サーファーのような感じで、髪を後ろで結んだ今風の青年だった。鹿児島にも訪ねて来られて、その様子をホームページでも紹介されている。
 
かくして、その夜の交流は明日以降の取材内容に期待を膨らませながらの終了になった。
(地区毎の焼酎をグイグイ呑む) (諏訪園記者と笹本さん)
(八丈興発の工場長さん)  (奥山清満さん)
(槇野徳光さん)  (木場・槇野、造り手両氏通じる)

 八丈史や多くを知るうえで、永年八丈島を新聞取材という目からみて来られた「南海タイムス」の協力も忘れてはならない。突然の訪問だったが、快く受けて頂いた。そこで、大変な収穫があった。南海タイムス掲載、超ロングラン小説「流人バッカス」というものがあったことを知った。ただ、訳あって作者に会う機会が出来なかったのが大変残念だった。実際は、この著者が一番八丈島において丹宗と八丈に対して小説にしたいくらいの思いが深かったのではと思えてならないのである。この事は私にとって、将来に残された課題のひとつでもある。
  
 (南海タイムス社)  (通信部の菊地さん)

 2日目以降も時間のある限り丹宗焼酎接点を追い探すことになる。八丈島は、形状的に説明するとひょっこりヒョウタン島のような、しかし両端に火山を持ち、中央の平地に空港を中心にして、島をぐるりと道路が周っている小さな島である。
暗くなりかけた夕方、昔の焼酎造りに詳しい人物がいると情報が入る。昔、闇焼酎造りも経験した老人らしい。話は、八丈なまりでポツポツと語られた。大鍋の上に甑を敷き、三角になった物を逆さにして、その中に絶えず冷たい水を貯え、その中心に皿の様なものをあてがいそこから垂れてきた焼酎を流すようにして造ったと懐かしく語られた。八丈のそれ以上の焼酎に関する事や丹宗庄右衛門の情報は知っておられなかったが、八丈島の民間の生活を焼酎という話題で生身の声で聞けたことが、大変意義があった。なんと驚くことに、この老人は八丈島では有名な方だった。
東京都無形文化財・八丈太鼓や太鼓節、春山節、ショメ節を芸能される地元では知られた方で、この後その舞台を八丈のイメージということで、ラジオは収録、TVもカメラを回すことになった。 
(八丈太鼓)

 庄右衛門の第二の故郷だと想うと八丈の郷土芸能を聞いた事も踊ったこともあろう庄右衛門たちと共有の接点に触れたようで感無量になった。庄右衛門の情報はあまりにも少ない。住んでいた場所や住居のあった特定も難しく、また物語すらなかった。ただ、丹宗が伝えた焼酎は廃れず今でも造られており、多くの人々に指示されていることに間違いがない。島にいる間、葛西先生に八丈の歴史を本当に詳しく説明して頂いたこと、資料館や保存された文化財等も事細かく教授されたこと、圧巻だったのは、その昔流人達が初めて島に着き、舟を着け降りた湊を紹介され、そこに立った時。風が寂しいくらいに冷たい夕方の海で私達は当時の流人の境地に浸った。新港の一角に残された石積みの古い船着場で、そこだけがタイムスリップした場所のようだった。到着の舟の接岸は風の向きによって船着場が違ったらしい。磯崎酒造の前の港もそのひとつだったということだ。風の強い日は、非常に荒れて港の中も渦巻き波が乗り越えるほどの恐ろしさがある。私達はそれを目の前でみた。八丈島からの脱走、島抜けが難しい理由はそこにあった。あまりにも遠く厳しい海が八丈を取り巻いているのである。焼酎を製造する為、許可を願いにいったであろう役所跡へもいった。足跡を見つけることは困難であったが、居たであろう、きたであろう、観たであろう、食べたであろうと庄右衛門と同じく心境を重ねれば何となくわかるような思いがした。
 
 (時代が重なる港・湊)  (夕暮れの湊から見た八丈富士)

右へつづきます…。
 
 



…左からの続きです。
★丹宗庄右衛門の詠んだ歌

 丹宗庄右衛門が八丈島に居たとき薩摩との通信にこのような歌の便りを送っている。
 庄右衛門の身を案じた、妻子および親族が年一回の通運便に託して阿久根の品物を送り慰めていたものに対しての、突然の歌の便りだった。(阿久根資料より)
 (庄右衛門が詠んだ)
 青柳の糸もいぶせき朝夕に 
           ただかざなりに送る年月


 河南源兵衛(
根心)をはじめ親戚の人々が集まり、その返歌を送った。根心とは島津藩の貿易商、河南源兵衛は江戸時代の初期明国からこの阿久根に帰化し、はじめ藩の唐通詞(通訳)のち御用商人を兼ねた。中国名の藍二官を改めた日本名)阿久根誌より

 (阿久根から庄右衛門に)
 渋柿の其のまま秋をおくるけり 
        
 吹きやめば隣に送る柳かな

 (八丈からまた返歌がきた。)
 時をまつ木の実なりせば渋柿の
         われこそ後のちぎりなるらむ


 庄右衛門が八丈島で折々詠んだ歌
 古里を思ふ八丈(やたけ)の波の上
         うらやましくも帰りかりがね


 庄右衛門の辞世の句
 何事も皆いつわりの世の中に
         人の誠はこの一つなり


 妻、ミツの辞世
 一筋にまことの道をふみわけて
        心のこさず彌陀の浄土に


 源七の辞世
 成す事も成ざる事も世の中と 
        
いまわに心残らざりけり

★八丈島を去る日が来た…
 短い句の中に、深い思いが込められていて、全てを完結するには心が痛くなる。八丈を私達も去る日が来た。島全体を見渡し、海を挟み鹿児島を望める、八丈富士の半ばに立った。
  
薩摩(鹿児島)は彼方にあり、庄右衛門の当時の心境を考えると深い寂しさを感じた。また、吹きすさぶ薩摩を望み先行きの不透明な不安を予兆しているかのようにもみえた。

 滞在中、毎日冷たい風が吹いていたが、特にこの日は厳しかった。改めて、八丈島から鹿児島をみると、外から何かが見えるようで今からもっと大きく焼酎業界が揺れ不安材料が増えていくだろうと決起に近い思いが込み上げてきた。庄右衛門も時代や条件に違いはあれ、時代が激変を向かえながら商業した商人ということで、立場を重ねて考えられ、同じように八丈から鹿児島を望んだ時、何を思い何をしょうとしたのか興味をそそられたのであった。それが、「焼酎を造りたい」という結果だったのではないでしょうか。

 庄右衛門は、18ヵ年の流刑に服したが、この流刑は明治維新になっても忘れられてそのままで、河南源兵衛(根心)などの近親者が松平正義に願い、その助力で、明治元年(1868)か2年にようやく帰ることになった。刑に服して帰ったのは白髪の57〜58歳であったという。

(阿久根資料より)
 その後、丹宗庄右衛門の功績を讃え八丈島観光協会と同酒造組合が島酒の碑を建立した。阿久根市長を務めた庄右衛門のひ孫の故丹宗忠氏が、八丈にある島酒の碑の除幕式に出席されたこともある。
         
       
        (丹宗神社)
         
         (島酒の碑)

★最後に
 八丈島と鹿児島の焼酎事情は丹宗が伝えた同時代の頃から別々の文化発展を続けてきたが、状況が変わりながらも廃れず150年以上の年月を経て郷土の特産物として大事にされてきた。現地は、東京都でありながら、まだ焼酎の価格破壊もなく安心した。離島だからそうゆう波が来ないという意見理由は通らないことが、実証された。これからも、庄右衛門が関わり同じ芋焼酎圏であるこの島まで悪い時代の波が届かないことを願い八丈島を離れようと思う。あまりに短い探訪であり心残りではあるが、庄右衛門が舟で送られてきた頃と違いジェットが離発着できる八丈島なので是非また訪ねようと思う。
※第2編はここまで

第3編へ続く…。(ここをクリックしてください。)
 
 実際私たちが拝見したことは、ほんの表面だったかも知れないが、その現実証言の飛び出す扉が少しだけ、開けられたきっかけになれたのではと、思いたい。第3完結編では、焼酎屋を訪ねる。
特派員:しょつやの前畑(店主:前畑さん)
【鹿児島県曽於郡財部町】


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五分の目編集局
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五分の目編集局長より
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