日本・侍士の会が地域に密着し、各役場(行政機関)を通じたり、人と人を結び世に出ない話題を集めローカルな特色のある取材を行い、その地の特産物である海の物山の物川の物という食材や地場の焼酎等を取り上げていきます。その際、各地域にある侍士の会加入店も特派員になり、情報収集し、またその地方の活性または宣伝する場(チャンス)を提供したいと考えました。ですから、このページの情報は、焼酎に関することなら、何でもオッケー!公序良俗に反しない限り。各特約店の方々からの焼酎情報や一般の方からの話題もお楽しみいただければ幸いです。 
 
今はもう、財部町に焼酎蔵はない?
 財部町の芋は、昔から質が良く評判が良かったということが、財部町の郷土史に書かれてありました。そして、なぜ、財部町から焼酎蔵がなぜ姿を消したのか。その謎も財部町の郷土史に記載されていました。その全文を下に掲載しました。
焼酎醸造
財部の焼酎醸造について、田口今助氏(明治16年生)の話しを聞いた。
田口が焼酎屋を始めたのは20歳の時であった。
明治35年ごろである。そのころは、各自の家でも焼酎づくりができるころであった。焼酎屋は財部に20戸くらいあった。焼酎の税金は一升にいくらといってかかり、大して高いものではなかった。(松山の場合、非常に高いといわれている)、税務署から士官帽を冠った焼酎官が検査、監督に来た。末吉町の柳井谷に税務署の出張所があった。財部焼酎は甘藷(かんしょ)の質がいいのか、非常に評判になった。それで都城、北諸県郡、姶良郡、末吉など広く売れるようになった。それから順調に繁盛した。
田口が明治35年ごろ焼酎屋を始めたころ、同じころ財部では、岩崎与次郎(当主田中穂積)が焼酎屋を始めた。明治40年頃になって外山平助(当主良平)が始めた。
焼酎つくりについて外山量平氏(明治20年生)の話。
 量平は21歳で兵隊に行ったが、その頃は父平助が既に焼酎屋をしていた。量平の15、6歳の頃から始めていたので、明治35、6年の頃となる。
 その頃は、焼酎は
集落で共同でつくっていた。外山では焼酎を商用につくっていたが、これは焼酎をつくらない一般の人が買っていた。その頃は、100貫つくるといっても、実際は200貫つくるというふうであったので、監督がやかましくなった。税務監督局長勝正憲という人が、集落の共同醸造を整理しようとつとめた。集落の焼酎つくりを少なくしようと、新聞などにも書きたてた。横暴だという声もあったが、しかし時世は自然そういうふうになっていった。
 焼酎造りの税は割合安かった。それで焼酎造りとしてはよかった。
税金年4回納めた。今年つくったのは、来年7月に税がかかった。焼酎官がよく廻ってきた。
 当時財部では、焼酎は田口、小田平、小村、藤島、下財部(大字名)に山元、沢田(集落名)の鎌田、新地(集落名)に鹿児島からきた人が焼酎を作っていた。
 田口と田中はいっしょに焼酎造りを始め、外山はその翌年に始めた。(四十七年史)
焼酎工場
 昔の焼酎製造はほとんど個人か集落共同製造で
自給自足であった。明治40年頃までに本県の焼酎製造業者は4千余りに及び、その90%50石未満共同自家用業者にして、各町村の集落に散在していたため、自然検査監督も不徹底となり、脱税等が相当多数に上り、はなはだしいものは査定焼酎と脱税焼酎とが相半し、いわゆる「半官半民」という言葉の流行する状態となっていた。その後、当時鹿児島の税務監督局長であった勝正憲が、酒税保全のため、自家用業者の大整理を断行し、明治42年にはこれを1,250名に、明治44年度には530名淘汰した。しかし当時なお過去の脱税常習の惰性は不正焼酎の氾濫となり、統制なく互いに利を競い合い、商業道徳の無視された行為が多く、したがって価格も1度9厘、すなわち40度のもので1升36銭というような採算を無視した価格で取り引きされていた。このままで進めば、遂に相喰み共倒れの悲境に至るというので、県を一丸として、鹿児島酒造連合会が生まれることになった。この会は、明治44年から大正元年までを、その準備期間として、大正2年3月正式に設置された。
右へつづくよ…。
 
 




…左からの続きだよ。

 当時財部には、
田中、田口、外山、小村、小田平、伊木、藤島、村田、山元、鎌田の10軒の焼酎工場があった大正2、3年頃不景気、欧州大戦が始まったが、その時、村田、鎌田の2工場は中止した。その後、昭和15年に至り、小村、外山、田中、田口、山元5軒なった。昭和18年頃、山元、小村は岩崎産業の経営する志布志工場に移譲し、昭和34年には田口・田中・外山の3軒だけとなった。

 焼酎製造従事者は毎年同じ人が日稼ぎに来て造り、その人は販売の面まで(自由販売)やった人もある。
大正の中期頃は、各農家に1斗ないし2斗くらいずつ入れつけて、その代金は甘藷【かんしょ】の収穫期に、甘藷を焼酎代として、1年分支払っていた。毎年同じ人が焼酎製造に従事者として長く続いたのは、製造技術の関係であろう。造石高としては、最盛期田口700石田中320石も製造していたが、昭和21・22・23年の平均製造石数が基本石数となり、本町業者は原料等の食管法による配給のみで作り、製造石数が少なかったため田口70石、田中100石、外山90石の制限石数である。自家小売以外の焼酎は、曽於郡酒造卸売組合に卸している(基本調査)。
 財部の焼酎製造業は、その後しばらく続いたが、
田口田中昭和45年度まで、外山47年で製造を続けたが、その後は、志布志の『若潮』に製造を委託した。
財部町郷土史より
特派員:しょつやの前畑(店主:前畑さん)
【鹿児島県曽於郡財部町】


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