まわりを田んぼに囲まれた、ちぃーさいスペースに12種類ものお米の苗がぎっしりと肩を寄せ合うようにして息づいてきている。貴重な、本当に貴重なわずか7グラムのタネから始まったときには、こんな感じで増やし始めたんです。最初のうちは信念をもってやりはじめたものの、本当のところは不安でいっぱいでした。
【エピソード】

 「夏子の酒」という物語のなかで繰り広げられた、様々な苦難や喜びを知り、あの同じ体験を焼酎の世界でやってみたい、財部の田んぼで米作りから経験したいとたった7グラムの遺伝資源米育種から始まった。

 再現に入るとき、最初に私は“びっきょの会”のメンバーと接触することができ、現在に至っている。

当初、農業のノの字も知らない私にとって何からすれば良いのか全然わからず町の将来の為になるだけの大きな企画と信じていた私は、前町長(坂元氏)のところへ資料を持って行って直接はなしを聞いて貰い、協力を要請した。その後、普及所(隣町の末吉町)の協力をもらうことが出来、当時役場の経済課(現農林振興課)の中心的協力で焼酎「薩摩の斬り札」と旧酎「侍士の門」の二種類の焼酎を誕生させることになった。後で、聞いた話だが・・裏話として本当にびっくりするような異例の対処があったようであるが、内容は公表できないものかも知れないので詳細は伏せておくことにする。しかし、その異例の行動が県職の方々に言わせると、・・がなければ、動かないという事らしい。


★私の7グラムからの発案で、一回目の打ち合わせ(顔見世・説明会)らしきものを経済課の会議室でおこなった時の話。

そんな事しなくても、どこかで先に作っている県から仕込みに必要な種籾の数量を引けば早い!という発言が出た。その団体は、その日限りでお付き合いはなくなった。ただ、実用化となり他用途米扱いになるため付き合いを今年秋から再開する。

一年目の取り組みは、まず7グラムから確実に芽を出し収穫し量を増やすことから、始まる。また、品種別に眼で確認しながら、特徴を観察することが重要な主旨であった。試場田の広さは、10メートル×10メートルと小さなもので、広い田園の中で際立って異様な風景をつくっていた。初めての経験で、草取りから苦労した。田園の中の一角で転作地を利用した牧草地の中での、育種は草の中なのか解らない状況でした。


12品種ともなると、成長に格差が出てきて非常に面白い。

@発芽がまばらで、色の濃さも違いがみえる。
A葉の大きさ・形状・色、茎の太さも異なる。
B亀冶だけが、苗のうちに葉を虫に食われ全滅しかけた。他の苗は、無傷。亀冶は、虫にとっても一番美味しい?
C条件は同じで発芽し、それでも本数がかなり少なかったのが竹成白玉である。竹成は、米だと言わねば、萱か痩せた竹のような風貌であり、白玉も痩せた弱そうな米だ。
D繁殖と勢いが強く感じたのが、亀の尾・かばしこ・雄町と他順にくる。また、早く完熟するのも同じである。最後まで青くしていて心配させたのが白玉であった。
Eほとんどの品種が長く伸びるが、竹成は低く現代の米の性質に近かった。
Fまた、種の先に3センチ程のトゲがあり、赤く色をもち、田を赤く染め原種と公表しているのに、赤米と誤解されたまだ、全国、鹿児島でも赤いのは古代米だけと勘違いしている人が多く、もっと正確な正しい情報を流して欲しいものである。古代米の話題性を追うばかりでは、何もそれ以上の発展もない。

※収穫までに、あの物語のトラブルのように私の場合も、こんな事もあった。
 ある日、観察にいくと、田の中に刃を上にし、突き刺された先が少し折れ錆びたカマがあったことがあった。また、米作りは水が必要だが、あまりに成長が違いすぎるため、晩成の品種に合わせたことで、周りの田へのが完全に止められ、以後、毎日水の必要な品種に19リッターポリ数本で水をかけに行った。

台風が来た。いても立っても入られず強風の中、深夜に明日の全滅前に見届けたい、助けたい気持ちから試場田までいった。稲は大きくなびき、うねりのように右・左・下へと叩きつける様に容赦なく吹き荒れていた。翌日、田に着くまで、周りの稲はジュウタンを敷きつめたように全てが倒れていた。・・・・・・・だが!あの、12品種は生きていた。まだ、成長が遅れた分だけ柔軟だったから、免れたに違いない。
 
 かくして、無事全品種の一年目の取り組みは終了した。この後に、この取り組み・米作りに関する重大な問題を知る事になる。

 減反問題と深く関わりのある行政、指導・推進・の立場で農家に減反を打ち出す中での、焼酎用原料米の栽培協力で様々な問題と確執をつくってしまったが、問題提起から問題の解決を思案していこうとしている。